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電脳コイルpatch-001「あべこべメガネ」 二時間目その三
ナメッチの推測はこうだ。
「今フミエには、電話がつながらない。ということはだ。電話が通じないような、電波状態の
悪い場所にいるに違いない」
学校の近くで電波状態が悪い所といえば、中津交差点近辺である。中津交差点は市内でも一
、二を争う電波の混線地帯であり、同時に、メガネが普及する以前から交通事故が多発してい
た場所だった。
中津交差点のガードレール脇に供花が絶えた日はない。
オカルト好きの高校生たちの間では中津交差点は「毒電波スクランブル」と呼ばれ、ここに
立っていると脳が直接電波を受信してしまって気が違ってしまうだとか、死んだ人が見えるだ
とか、実は中津交差点は夜中にUFOが飛来する宇宙人の実験場で、しかもこの宇宙人の正体
というのが、あの、古代ポロロッカ文献にある初代世界天皇ポロロッカその人なのだなどと、
むちゃくちゃなことが噂されていた。
一行はすみやかに中津交差点に向かった。
みんなにその曇りのない鋭い推理を褒められて、ナメッチは大得意である。
「ははははははは。伊達や酔狂でメガネ使いやってるんじゃねーや」
……なるほど、着眼点は悪くない。
確かにその時、フミエは非常に電波状態が悪い場所にいたのである。宗像さんがかけた電話
が通じなかったのもそのせいだ。ここまではナメッチの推理はぴたりと当たっている。しかし
ナメッチは見落としていた。肉体の問題である。今のフミエの体はいつものフミエのものとは
違い、いつもよりずっと小さい、ぬいぐるみ程度の大きさなのだ。
人間の視線でものを見ている限りは、絶対に見つけられないし入り込めない、犬や猫と同じ
ような低い視線に立った時のみ、視界の中に見えてくる場所。そういう場所や道を考慮に入れ
るなら、電波が届かない場所の数は、一気に膨れ上げる。学校から中津交差点に向かう道の途
中にだって、そういう場所はいくらでもあるのだ。
メガネに搭載されたナビゲーションシステムはとても優秀だった。
徒歩の時には徒歩に最適な経路を示し、自動車で移動している時には自動車での移動に適し
た道路を示す。その時々のユーザーの移動手段に合わせて、経路を自動的に選択して案内して
くれるのである。
虫になったフミエは犬や猫と同じ視線でものを見ていた。
ナビは、人間である限りは知りえない、犬猫や放し飼いの電脳ペットが利用する道をフミエ
に教えてくれていた……。
* * *
何故だろう。
昼間だというのに、ナビが教える道を進む間、ずっと鼻奥に夕焼けの匂いを感じていた。
学校の裏門から入り組んだ細道を抜けて、郵便局の角を曲がり、鬱蒼と木が生い茂った鹿屋
野神社の鎮守の森の裏手を通り過ぎる。坂の上からジャンプして駐輪場のトタン屋根に降り、
煙突のある町工場に向かってまっすぐ伸びる、茶色いプラスチックの雨どいに沿って進んだ。
板塀の下に開いた穴をくぐって、半分地面に埋まったトラックのタイヤが一個とジャングルジ
ム以外、まったく何もないガランとした公園を横断したあと、ぽっかりと口を開いた側溝の中
へと飛び込んだ。
水気のない乾いたコンクリート製の狭い側溝の中で、見たこともないキノコが干からびてい
るのを目撃したり、数年前にはCMソングが流行語大賞を取るくらい流行ったのに、今では影
も形もなくなってしまったジュースの空き缶と、数年ぶりに遭遇したりした後、落ち葉がみっ
しりと堆積して行き止まりになっている所を上って、側溝を出た。
灰色のブロック塀がどこまでも延々と蛇行する小道を進んだ。
大黒市の道路が精緻な都市計画に沿って整備されている事を思うと、自動車も通れず、バイ
クも通れず、辛うじて大人一人が身を滑り込ませることが出来るほどの幅しかない上、しかも
延々と蛇行が続くこの、計画性のかけらも感じられない小道は、どう考えても公共のものでは
ない。たとえ私有地だとしても、こんな道を個人的に作る理由が、わからない。
と、突然ブロック塀の一部分が「コ」の字にへこんでいるのに出くわした。
へこんだ壁には、
フランス語教室
と、張り紙がしてある。張り紙にはシャンソン歌手らしい、カールボブの外国の女性の白黒写
真がプリントされている。ただそれだけで電話番号も、教室の住所も記載されていない。こん
な所に張り紙をしていったい誰の目に止まるというのだ。
フミエは「なんだこりゃ」と思った。
まだ学校を発ってから何分もたっていないのである。
動物が、己の行動範囲を定期的に巡回して、そこが自分のテリトリーであることを主張する
のと同じように、小学生にだって自分のテリトリーはある。
フミエのテリトリーは、子ども部屋と、居間の右手にある小さい物置、住んでいるマンショ
ンの近所、それに、学校の北校舎に面した小道と大通りに挟まれている住宅街の一帯だった。
ここは一年生のころからいつも遊んでいる領域だし、そこにあるものなら自分はなんでも知っ
ている。そう自負していた。
貼り紙のシャンソン歌手は、白黒写真なせいか、異様に物憂い顔をして見える。
土曜日に男にひどい捨てられ方をして、暗い日曜日を過ごす女の顔である。真実嫌になった
という調子でクズ以下の罵倒を浴びせられても、なお忘れられず、携帯の電話帳を開いて「削
除」と「キャンセル」の間を行き来してみたり、メールの履歴を意味もなく読み返したり。な
にをやってるんだろう、自分でも自分のことをクズ以下の女としか思えない。あれはそういう
女の顔だ。
実際にはフミエには、そういう不幸な女を見かけた経験はないのだが、こないだテレビでそ
んな二時間ドラマがやっていたのである。
自分の縄張りなのに。フミエはポスターのことを、今日までまったく知らずに生きてきた…
…底が抜けるなんて考えたこともなかった自分の足元が、実は、金魚すくいの紙よりも薄っぺ
らだった。そんな気分だ。
さっきからずっと目眩がしていて仕方ない。
頭も痛い。じんじんする。まさかこれ、死の前兆じゃないでしょうね。
道はどこまでも果てしなく続いているが、曲がりくねっていて、その先になにがあるのかは
見えない。もしも、これ以上先に進むと、自分は二度と戻って来られないのではないかという
原初的な恐怖が突如湧いてきて、フミエは衝動的に元の道へ踵を返した。
途端、ナビゲーションシステムの矢印がメッセージを発した。
<リンクが切断されました。ナビゲーションを一時停止します>
そして矢印は消滅してしまった。驚いてフミエはプロセスを再起動するが、まったく反応が
ない。ステータスを確認する。衛星とのリンクが切れていた。電話も通じないし、メガネのい
くつかの機能にも不調が生じている。
「ここ……電波状態が不安定なんだわ」
フミエが迷いこんだそこは、いわば電波のバミューダトライアングルとでも呼ぶべき一帯で
あったのだ。
フミエは真っ青になった。ここまでナビ任せに進んできたのだ。道順なんて、はじめの曲が
り角三つ分くらいしか覚えてない。顔を引きつらせて「だいじょうぶ大丈夫」とぶつぶつ念仏
を唱えながら、道を右往左往して電波状態の良いところを探すが、どこにいっても、アンテナ
はまったく立たなかった。これまでナビの調子がよかったのは、ただ運がよかっただけなのだ。
しばし沈黙。
フミエ、二度、三度と深呼吸。
何を慌てることがあるだろう。
道に迷っても、ここは学校から十数分の場所でしかない。
どこか大通りに出てしまえば、学校に戻る道筋は簡単に見つかるだろう。
なにも焦るようなことはないのである。
そうだ、なにもないのだ。
ここは、自分の見知った場所の、しょせんは裏側に過ぎない。
フミエは揚々として元来た道を振り返った。
真っ黒い塊が道を塞いでいた。
塊の肩や腹は、自身の息遣いに合わせて生物的に上下する。
塊は狭い道の真ん中に寝そべり、だが首だけはしっかりと立てて、まっすぐこちらを凝視す
る。
黒い犬だ。
「なんで電脳ペットがいるのよ」さっきは影もなかったのに、いったいどこから湧いて出たの
だろう。
そこはさっきフミエが通り過ぎたばかりの場所なのに。
電脳ペットがデータだけの存在だからといって、彼らが市街空間の座標軸を無制限に移動で
きるわけではない。電脳生物はデータでありながら、現実の生物の忠実なコピー、あるいはそ
の延長線上にあることを期待されて生み出された存在だ。そのため、その振る舞いは、極端に
現実を越えない程度のレギュレーションに沿って設計されていた。ワープだのテレポーテーシ
ョンだのの真似事は通常、出来ない。
だが犬はそこにいるのである。
まあいいや。邪魔だ、どけワンワン。ほれワンワン、ワンワン。犬を威嚇しながらフミエは
一歩前に出た。
むわりと鼻を獣の臭いが包んだ。
燃えるように赤い舌を垂らし、忙しなく吸って吐かれる息。
何が違うのか、具体的には説明できないが、それはデータだけの存在である電脳犬の息づかい
とは、決定的に異なる。重さがある。それに温度。
生の犬だ。
瞬時に背筋が凍った。
黒犬は生の犬の骨格と生の犬の筋肉を以って、犬らしい動きで、ゆらり、と立ち上がる。
フミエは弾かれたように逃げ出した。
走り出した小さな生き物の動きに反応して、肉食獣の本能が、彼の行動欲求を刺激する。
彼は生まれながらの狩人なのだ。それ以外の生き方などすべて偽物だ。
本能に従い彼の体は動く。
駆ける。